シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

日曜の晩、布団の上

薄暗い部屋で光るテレビとスマホの画面。この記事を書き始めた時点で既に窓の外はかなり暗く、本当ならもうカーテンを閉めて明かりをつけるべきなのだろう。しかしその元気が無く、見てもいないテレビをBGMに、布団の上で漠然とスマホを眺めること幾時間。予定の無い土日はいつもそう。…正確に言えば、予定があっても時々そうなってしまう。

今日、本来であれば、しっかり支度をして荷物を持って家を出て、今頃目的地に着いていなければならなかった。しかしできなかった。そもそも持っていかなければならないもの達が、昨年引越したこの家のどこにしまわれているかも分からない。何も準備ができていない。目を通すべきものに目を通せていないばかりか印刷すらできておらず、まだデータのまま。辛うじて昼にシャワーを浴びることだけはできたが、その先の道のりが長すぎて力尽きてしまった。心底申し訳なくなりながら仮病を使って休みを決め込んだ。

 

少し前にTwitterで流れてきていた「週末うつ」というやつに近い状態なんだろうと思う。

平日は一応決まった時間(それも遠距離通勤なのでそこそこ早い)に起きられるし、決まった時間、あるいは必要ならもう少し早い時間に出社することができる。仕事が多い日は途中で力尽きそうになる日もまああるが、それでも8時間(以上)は毎日働いている。週5で。

平日の間は元気なつもりでいるし、職場の人達と会話してはからから笑っている。コミュ障なところもあるけれど、精神は至って健康的(なつもり)。

ところが休日になるとこれだ。普段の癖で朝はそこそこ早いうちに自然に目が覚めるが当然二度寝、三度寝。食事の時間もめちゃくちゃ、というか始終ちまちまと少しずつ何かを食べているのであまりお腹も空かない。そしてずっとスマホを見ている。気づいたらまた寝ていたりもする。生理的欲求以外にほとんど何の気力も無い、メリハリの無い堕落。

平日に無意識のうちに無理をしているのだろうか?それとも自分が他人の目が無いと頑張れない、堕落した人間であるというだけのことなのか?その両方なのかもしれない。

 

自分が家でひとりで頑張ることが極めて苦手な人間であることは既に知っている。特にタイムリミットが無いか、比較的長いものには延々手がつけられない。いつかの自分がやりたいと望んでいたことでさえそうなのだ。いわんや気乗りしない義務的な作業をや。

今の生活は、これでも昨年度よりはずっと健全に感じられる。今は曜日と時間に縛られ、仕事をすべき時間以外で持ち帰りの仕事をやる必要は(今のところ)無く、一応生活にメリハリがある。対して学生時代は、時間の制約が良くも悪くも無かったので、午後から動き始めて密度の低い作業時間をだらだらと夜まで続けていた。土日も小さな違和感というか焦燥感が常にあって、何もしていないことに罪悪感を抱いた(が、それをばねに何かを生み出せるほど私は勤勉では無かった)。特に登校すら制限されていた昨年度は、これが24時間7日間nヶ月間続いていたのだと思うとぞっとする。怠惰な自分を甘やかす気も同情する気も無いが、こんな人間がこの環境に置かれたらそりゃあ堕ちるだろうなという気持ちでいっぱいになる。

そういう意味では今はまだましだと思える。土日突っ伏していても、平日働きさえすれば一応給料は貰えるし社会的地位も損なわれない(別に学生時代追放されたことがあるわけでは無いが、比喩的な、精神的な「居場所がある」という感覚のことを言っている)。でもやりたかった趣味は?学生時代や平日に思い描いていたことは?何もせず、できずにまた月曜日が来る。

 

家にいて頑張れない時間を過ごしていると、学生時代の嫌な焦燥感を思い出しては憂鬱で惨めな自己嫌悪に苛まれる。今土日にやらなければならない(あるいはやりたい)ことは、学生時代とは違って、本当の意味での義務では無いかもしれない。でもこのまま寝ていては、きっと近い未来の自分は後悔するし悔しがるだろう。それは確かに分かっている。でも気力と体力が追いついてくれない。これは社会人1年目ならではの状態なのか、それとも自分自身の限界なのか。何とかできないのか、私。

あるサピオロマンティストの「知性」の定義

常々私は「知的な人が好き」と表明してきた。「好き」は広義/狭義どちらの意味でも。本当はここに楽器ができるとか別の条件が上乗せされるともっと素敵なのだが、今年得たたくさんの新たな出会いから振り返るに、やはり「知性」こそが第一条件であり必須であるようだ。

私の脳(と子宮)が思う「知性」とは何か。それを見極めたくて、私が他者に求める、「知性」という言葉で表現しているものが何なのか考えてみた。「知性」を私が因数分解すると、2つの要素に分けることができると分かった(尤も、厳密にはこの2つは全く重複しない別個の概念とまでは言えないかもしれない)。

 

まず「視野の広さ」。

ひとは性質の近い者同士で集まりたいものだ。180度価値観の違うひととは、いっとき会話するくらいなら刺激になるかもしれないが、四六時中一緒に暮らすのは疲れてしまうだろう。

でも(当たり前だが)全く同じ人間なんて居ない。人間は完全に孤独では生きられないから、同じではない他者と生きなければならない。自己と他者との「同じで無さ」に対する予測力と受容力には、大きな個人差があると思う。

他者の「同じで無さ」に対して関心を払わず無視する人、受け入れようとしない人、また寛容なようで実際には自他の差異をフラットに受け入れきれない人もいる。本当の意味で他者の「同じで無さ」に向き合い、ニュートラルに受容しようとする営みは、視野が広くなければ不可能だ。自分の知っている世界を全てだと思っている人間には、自分と異なる世界を生きる人間の視界なんて想像することはできない。

もちろんひとりの人間が森羅万象を知ることなんてできないけれども、せめて自分の知っている地平線の先にも世界が存在することくらいは想像できてほしい。洞察の翼で地面から飛び上がり、自分の視野を広げるなり離れるなりできてほしい、ほんの数メートルでもいいから。

 

もう一つの要素は「思慮深さ」。

視野の広さが二次元方向の広さ(大きさ)だとすれば、こちらはZ軸方向の深さと言える。ある特定の物事について、縦に深く掘り下げることのできる思考力。

別に何でもかんでも深読みしていちいち考え込む必要は無いのだ。ただ、そのポテンシャルというか能力は有していてほしい。何か小難しい議論を、しようと思えば一緒にできてほしいのだ。私の話に対して、「難しそう」「私には分からない」と理解を諦め、拒まないでほしい。理解しきれなくてもいいから(私だって全てを理解できるわけではないし、そもそも私が説明下手なせいかもしれないから)、理解しようとするそぶりを見せてほしい、し、さらに望むなら私の話を興味深そうに聞いてくれるとこの上なく嬉しい。

 

両者を併せ持っているひとのことを私は「知的な人」とみなし、そういうひとたちから「知性」を感じる。そして私が好きになるのはそんなひとだ。

彼らは自らと異なる価値観をニュートラルに受け入れようと努めるし、マイノリティーを色眼鏡で見ない(ように努める)。自分の知らない世界に対して決めつけをしないし、知的好奇心をもって向かい合う。

 

私は、そういうひとと過ごすとき生きやすいと感じる。私自身、世間の多くの同年代が聴いている音楽に疎かったり、同じものを好きな人になかなか出会えないマイナーな趣味嗜好を持っていたり、世の中の女性の多くがごく普通に関心を抱く物事にあまり興味が持てなかったり、そういう要素がいくつもある(そもそも自分の性自認は「消極的女性」だと思っている)。だから、私を「26歳女性」という枠組みを前提に理解しようとされると違和感がある。私という人間をそのまま私として解釈してほしい、せめてその努力をしてほしい。

私は年齢性別国籍と無関係に自分の「好き」に忠実に生きたいと思っている。だから、いつでも容易にマイノリティーになりうる。私はたまたま女性の身体と(消極的)女性の性自認を持って生まれ、たまたま性的指向が異性(男性)に向かうだけだと思っていて、性的な意味でも「偶然マジョリティーに近いところにいるだけ」だと思っている。日本という国で、日本以外のルーツを持たない両親のもとに生まれたことだって偶然の産物だし、そのまま日本を出ずに生まれ育ち働いているのも偶然でしかない。人間誰しも、あるところではマジョリティーでも別のところではマイノリティーになりうる(以前もどこかで書いたことがあるかもしれない)。そういう事実に目を向けたことがあるひとと無いひと、どちらと居るのが生きやすいか、想像するのは容易いだろう。

 

言うまでもないが、これまで述べてきたのは(私にとって)人間としての理想的な姿であり、従って私自身もそうでありたいと常に願っている姿である。あらゆるひとを無自覚のうちに傷つけてしまわないように、無意識のトゲを知性で丸め、隠すよう努めている。…まだまだ未熟だろうけれど。

 

 

年末に思いついて、大晦日に上げるつもりだったこの記事だが、下書きで温めているうちに年が明けてしまった。昨年は環境が大きく変わり、色々な––幸い多くはプラスだったが––出会いがあった。今年はどうだろうか。願わくば、昨年以上に知的なひととの出会いに恵まれますよう。そして、こんなぶちまけたような乱文を最後まで読んでくれたあなたにも。

過去と未来と混沌

毎週毎週考え方が変わっていくように思える。自分が信用できない。

 

正直、書きかけで完結させられず放棄された記事のなりそこないがいくつもある。それらを見ていくとあまりにも今とは別の私がいる。

 

ある事実を知った直後に書きかけていた文章はこうだ:

「私がその先を望んでいるかと言われれば、否定はできない。あの言葉を聞く前と後で何かが変わったかと言われると正直分からない。最初から本気でその先を望んでなんかいなかったような気もするし、未だにお伽話のようなお花畑のような未来を夢想する能天気な自分がいるような気もする。その感覚自体は以前とほとんど変わっていない。ただ、少しの苦さが加わっている。」

 

その後少ししてから書いたのはこう:

「私の中に、本当に好きなのか?と訝しむ者がいて、そう認めざるを得ないのでは?と観念する者がいる。立場上こうなのだし、ああいうところもある人だし…などと反対意見を述べる者もおり、でもこれこれはこうだし、こういうところは本当に素敵、とそれらをひっくり返しにかかる者もいる。ふとした瞬間に根拠の無いお花畑じみた未来を夢想する空想家がいて、この先どうなるだろう、どうしたものか…と頭を抱える現実主義者がいて、とりあえずしばらくは現状をありのままに受け入れてそのまま過ごしてみよう、と思考を放棄する者もいる。

しかしこれらの自分たちのさらに下の階層には、容易に揺らがない確信じみたものが据わっていて、彼らの言動は皆その上でのお遊戯会のようなもので。彼らの足踏みで多少揺らすことはできても、舞台ごとひっくり返すことは困難だ。結局のところ、私の奥底にいる何かが強大な決定権を有しており、それは選ばれた相手を容易に離しはしない。判定基準は曖昧で、最後は直感と本能の管轄であるにもかかわらず。」

 

 

少し前。角砂糖の蜂蜜漬けのような、根拠も無い甘すぎるお花畑を空想する私と、様々な理由を挙げてそれを説得しようとする(も空想家を止められずにいる)現実主義者の私がいた。

悩み、混乱しながら、何とか自分の幸福に繋がる道を見出さなければ、せめて見出そうと努めなければ、という強迫観念に駆られながら、暗い荒野をめちゃくちゃに迷走する裸馬のような私がいた。

 

今はどうかと言えば、無くせない感情を適度に宥めながら(殺せるほど私は器用ではなかった)、醒めかけた空想家を飼いながら(これもやはり完全に殺せはしないと思う)、現状をそのまま受け入れる頭がようやくできてきた、と思っている。事実を知りながらも好意は消せず、でも下手な夢想はある程度落ち着いてきて。「そういう」関係性でなくとも、そこそこ長い時間近くに居る今を楽しむかな、という方向に、少しずつ腹が据わりつつある。そういう意味で、一応気持ちとしては安定している。

 

しかし無論、それが将来的な幸福に繋がるとは思えない。その人は交際相手ではない。仮に人生設計だ何だ言うのならば、叶う見込みのない片恋をずっと抱えているだけの時間は事態の進展に何も寄与しない。

そもそも自分はどうしたいのか?誰と、どんな人と生きたいのか?そもそも誰かと生きたいのか?ひとり「が」いいのか?ひとり「でも」いいのか?人生100年とは言ったもので、年齢的な呪縛は昔よりは弱まってきているだろうが、それでも消えはしない。それ抜きにしても、学生時代のように「近い将来全く新しい環境と出会いが待っている保証がある」状態では最早ない以上、多少は考えなければならない時期なのだろうと思う。しかし、自分が生涯後悔しない選択をするには私はまだあまりにも幼いし、行動を起こすには私はあまりにも臆病だ。

結局、多分来週からも当分の間、私は今置かれた場所を密かに喜びながら、未来から目を背け続けるような気がする。しかし先週までの自分ですら時に他人のように思えるわけだから、7日後には全く違うことを言っているかもしれない。一方で自分が変に執念深い側面も(時々)持っていることを知っているので、今後何年もそのままかもしれない。どうだろうか。未来はやはり分からない。

下書きから溢れ出る

私は自分の内から勝手に湧き出す欲求を否定はしない。私はそうせよという教えを有する宗教の信者ではないから。また多少の科学的知識を持っており、それが邪悪な存在がもたらす呪わしい何かではなく、有性生殖をする生物種の一個体として不自然ではない生理的欲求であることを知っているから。しかし、それなら全面的に・無条件に肯定できるのかと問われればできない。私は己の欲求を肯定し、同時に嫌悪している。私の理性の部分がそうしている。存在「していてはいけない」ものではないが、存在「して欲しくない」ものである。

 

他者に害をなさないのならば、内心は完全に自由だ。どんなに人を殴るイメージをしようが尊厳を犯すさまを想像しようが、どんなにそれらが具体的であろうと、それが行動を一切伴わないのであれば、誰も不幸にならないし誰からも罰せられることはない(実行はしないが口に出す、とかそういう例は既に他者を害しているので除く。あくまで本当に何一つアウトプットをしていない場合の話である)。

頭ではそうと分かっていても、それでも納得しきれない自分は確実にいる。私の中に、無意識のうちに他者に(内心で)欲求を向けてしまう自分もいて、しかしそれを内心であっても気持ち悪いと嫌悪する自分も同時に存在している。

 

 

私は、自分が恋心を抱く相手と性的関係(というよりもう少し広義の、恋人という関係性)に至った経験が無い。当事者双方(あるいは全員)の合意を前提とした、そういう関係を他者と形成する経験を殆ど持っていない。自分の欲が他者に「許された」経験が乏しい。だから欲の持ち方が分かっていないまま、かと言って捨てることもできず、気持ち悪さを持て余したまま、抱えたままひとり立ち尽くしている。

私の理性はそれが抑圧すべきものではないこと、かつ抑圧できないものであることを知っているし、同時にその暴力性を理解している。他者をエゴの充足の手段として見ているようで、理性から最も遠い場所にある存在に思える。

しかし、私は理性のみからなる存在ではない以上、理性でどうしようもない部分はどうしてもあるのだと思う。そういうものなのだろうと分かってはいる。それでもなお、完全に受け入れることは未だできない。

分裂② …になるはずだったものと開き直り

長々述べてきている通り、自分に降って沸いた片恋への困惑の理由はいくつかある。残りは立場上の近さによるものと、「本当にこの人が良いのか」という疑問によるものの二つ。

 

…これらについて書くつもりだった。が、私のいつもの悪い癖で、たまたま力尽きたタイミングで書くのを中断してしまい、何日かが過ぎた。そして、もう書きたかった道筋通りのものが書けなくなってしまった。

理由は三つあって、まず時間を空けてしまったために吐き出したかった衝動が頓挫してしまったのが一つ。冷静になって、ここまで事細かに書くべきではないだろうと思い直したのが一つ。そして、とある事実を知って自分の内心に大きな混乱が生じてしまったのが一つ。…その事実がどんなものであるか察しがつく人もいるだろうしそれはどうでも良いが、いずれにせよ①を書いた時の自分ではなくなってしまった。気が変わってしまったと書けばそれまでなのだが…。

 

計画したくせに折るのもなあという気はするのだが、まあそもそもこれは誰かに読ませる性質の文章ではない(ものすごい開き直りようである)。冗長に書きたがるわりには飽きっぽいどうしようもない人間なので、下手に「ちゃんと」書こうとすると多分こういうことになってしまう。現に、筆が乗るところまで書いて暗礁に乗り上げている書きかけの記事が実は既にいくつもある。対処法は「ちゃんと書かない」に尽きるのだろうと思う。

 

…ので、今後は今まで以上にちゃんとしてない記事を量産するつもりです。説明的に書こうとしすぎるのも自分が力尽きる原因であることに気づいたので、今後はより抽象的でわけが分からなくなるかもしれませんが、結局の文章量は多少減ってまともになる、はず。なんかもう、実にすみません。

分裂①

さて、一つ前の記事で書き殴るだけ書き殴って中途半端に閉じてしまった文章に対する、2021年10月現在の私が書ける続きを2回に分けて記そうと思う。毎度のことだが、この文章は自分自身のための記録という意図が強いということをご了承いただきたい。

 

 

私は、約4年半にわたって知人の男性に対して一方的な感情を募らせていた。彼は私にとって後輩にあたる人で、ある程度好きなものが共通していて、知的で穏やかで、私のできないものができて知らないことを知っていた。複数人で食事に行ったり通話で雑談するくらいの仲ではあったが、内心その先を望む自分がずっといた。その感情の強度がかなり強かったこともあり、また自分が好ましいと感じる様々な条件(共通の好きなものなど)を奇跡的なまでに満たしていた人であっただけに、ずっと自分はこうして彼に気が向き続けたままなのではないかと半ば本気で思っていた節はある。

そこに突然衝撃を受けた私の、内心の混乱が伝わるであろうか。変化の急激さ自体への驚きもあり、趣味、特に音楽や楽器に関係のない文脈で突然降って沸いた感情であったことへの困惑もあり、また現実問題として相手が職場のかなり近しい立場の人であることから「どうしよう」という気持ちもあり。このひと月の間(特に後半からはこの方と関わる時間が増えた)、先方や他の方々との関わりを経験しつつ、自分の内側の部分を何とか理解しようと悪あがきをしてきた。それを自分の脳内やらTwitterやらで、全くまとまらないながらも言語化しようとしてきた。これからもう少しまとまった形で、いくつかの塊に分けてそれらを書こうとしてみる。

 

まず、中学頃からずっと、私にとって音楽・楽器およびそれらが好きであることはアイデンティティーの一部だった。本当に大切な部分だった。生きるための術として専攻しようとは思わなかったものの、それでも私にとって音楽は最も大切な趣味であり、楽器は大好きを通り越して神聖で完璧なものであった。それだけ自分の中心に近い部分に長年在り続けてきた大切なものだから、自分の恋愛感情がそれに引っ張られるのはごく自然なことだと思っていた。

そこに唐突に、10年以上ぶりに反例が生じたのだ。私の混乱の一部分には、件の方に直接関係するところ以外に、「自分にとって音楽の重要性が下がったのか?」という懸念も含まれている。そうであって欲しくはないが、正直部分的には正しいのだろう。ここ一年間で、(申し訳程度に)専攻してきた学問を離れ、漠然と興味のあったあるものに関わる世界に飛び込む決心をし、元々それが好きな人にとっては今更のような勉強をしてきた。そして不器用で怠惰な人間であること、また所謂コロナ禍もあって、正直最近は楽器を全く触らなくなってしまった。将来的な復帰予定は一応あるものの、今はまだ考える余裕が無い。これらが重なり、自分の中での音楽というものの存在感は相対的に小さくなったのだと思う。今も好きだが、他のものとの大小関係が多少変動したという感覚だ。

これだけは断言しなければならないが、そうは言っても私は自身の中での音楽の重要性や楽器というものへの執着を、自分の恋愛感情や性的感情をもってしか推し量れないわけではない(筈だ)。誰を好こうが好くまいが、自分には胸を震わせる音楽があり、憧れる楽器があり奏者がいて、それらを好きでい続けた歴史がある。それは変わらない。ただそうは分かっていても、少し混乱してしまう自分がどうしてもいるのだ。

 

…先程うっすら仄めかしたが、白状すると自身の性的感情も悩みの要素の一つだった(厳密にはあまり過去形にできていない)。

実は8月頃まで、自分はアセクシャルに近いのではないかと思っていたのだ。アセクシャルという言葉は元々知っていたものの、ちょうどその頃「性的欲求が他人に向くことがない状態を指すのであって、欲求自体が無い状態だけを指すのではない」ということを知り、「あれ、もしかして私それでは…?」という気になった。無いわけではないが、他者に向くという感覚がいまいちおぼろげであまりピンと来ないな、と当時は感じていたのだ。

しかし、結論から言えばこれは誤りだった。恐らく、ひとりの人に好意を抱いて数年が経過し、恋愛感情が持続した末に穏やかに落ち着いてしまったにすぎなかったのだ。思い返せば私はかつて(Aくらいだったが)その人に対するそんなような夢を見て強烈な自己嫌悪に苛まれたことが複数回あった。元々無かったわけではなく、時間とともに減衰しただけだったことに、数年ぶりに新しい感情に直面して初めて気がついたのだ。

「性的欲求」の(広義の)説明として、「セックスしたい」だけでなく「触れたい」という欲求も含む、と以前どこかで読んだことがある。かつて読んだ時は正直ピンと来なかった。特に後者が。今は理解できる自分がいる。幸いにして(?)9月から今までに性的な夢を見て死にたくなったことは無いが、このような状態に自分が変化してしまったことは事実だ。それに対する戸惑いと、己の気持ち悪さに直面したことによる軽い自己嫌悪を感じているのもやはり否めない。経験の少なさゆえ、このエゴの塊のような気持ち悪い欲求を他者に向けることに慣れていないのだ(たとえ相手本人のあずかり知らぬところで密かに抱いた感情であったとしても)。

 

 

2000字以上に肥大してしまったので続きはまた記事を分けることにする。毎回ことごとく文章が冗長化してしまうのは私の悪い癖だ。

2021年9月の記録

最後にこのブログに記事を投げてから半年も過ぎてしまったらしい。その間に私を取り巻く現実世界の環境は激変した。具体的に言うと、卒業したり入社したり転居したりした。

 

私の本当の本当の根幹は変わっていないと思う。思いたい。まあちょっと親しい人に言動が影響されやすかったり、自分の能力(特にコミュニケーション能力)に今ひとつ自信が持てなかったり、優柔不断だったり、自己がふにゃふにゃな部分も多々あれど、何が好きで何を重んじて生きているか、生きていくかというような大まかなコンセプトはそう簡単には変わらないものだと思う。…思っていた。

 

数々の新しい出会いの中のひとつ、ひとりの男性が、私の内面世界に衝撃をもたらした。つい先日のことだ。その衝撃は現在進行形で私を混乱させている。

数年前に別の男性に対して感じた感覚と酷似していた。気になる、から、抗えないという諦めに似た確信を経て、(私の中の)動かせない位置にそのひとが居座ってしまう。恋であるとほとんど認めざるを得なかった。楔が理性ではほぼどうすることもできない深い領域にまで刺さり込んでしまっていた。

 

以前どこかで書いたかもしれないし、Twitterで私を知っている人ならよく分かっているかもしれないが、私は楽器およびそれが上手な人が大好きだ。音楽と置き換えても概ね差し支えないが、やっぱり特に惹かれるのは楽器だ。楽器というものに対して侵しがたい畏敬にも似た強い好感を持っていて、楽器をやっている人には勝手に親しみを感じてしまうことも多いし、これまでの10年近くで私が恋心を自覚した相手のほぼ全員が何らかの楽器の上手い男性だった(ひとりだけいる例外は私が合唱の伴奏をやらされた時の指揮者だった。…やはり音楽という大きな文脈からは逃れられないらしい)。またそれ以外にも私には好きなものがいくつもあるが、趣味嗜好が多少でも良いのでかぶる人、趣味の話が合う人であってほしいという願望もかなり強い。はずだった。

ところが蓋を開けてみれば、楽器をやらない男性を私は目で追うようになってしまっている。知的で優しく、かつ自らの趣味を大事にしていそうなタイプの人であるというところはかなり好ましい(何だか上から評価しているかのようになってしまっているが勿論そんなつもりは無い)感じがするとはいえ、その趣味もさほど共通はしていない。ただ、私の知らないことを知っていて、できないことができて、忙しそうな時にも他者に気を配ることができる−−お察しかもしれないが仕事の話である−−、そういう男性であることは確かで、そういうところに惹かれてしまった自分がいた。

 

 

…上記の文章は本当は先月書きかけたものであったのだが、私の悪い癖で途中で放置してしまったまま時間が経ってしまった。一つの記事に一気に書いてしまうつもりだったが、今の心境の変化も併せて記録したいと感じたので、一度ここまででこの文章を区切る。中途半端で申し訳ないところだが、次の記事から自分の内心の10月時点での現状を記すことにする。