シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

多様性とアライ

先日、とある選挙があった。結果に対して「良かった」「嬉しい」と安堵した人、「残念だ」「恐ろしい」と感じた人、「そうだろうな」と冷静に捉えた人、様々だったろうと思う。

 

ひとの価値観の多くの割合は、そのひと自身の属性から少なからぬ影響を受ける。それは政治思想においても然りだと思う。もちろん「親や周りがそう言っていたし多分正しい」ではなく、ちゃんと自分の頭で考える必要がある。自分の属性からある程度離れた目、さながら幽体離脱したような目で、客観的に、できるだけニュートラルな状態から、より良い道を選択する努力が必要である。

とはいえ、それでもなお頭の片隅かつ根幹の部分に、うっすらと、それでいてしっかりと根差している「志向」のようなものが、きっと多くの人にはあると思うのだ。矛盾したことを言うと思われるだろうが、どれだけニュートラルに、理性的に、先入観や偏見無く、選び取ろうとしても、何となくこちらを選ぶのはちょっと勇気が要る、というような選択肢が存在することはままあると思う。私にだってある(具体的な方向性は伏せるが)。

それ自体は別に悪いことでは無いし、ある程度避けられないことだと思う。例えば、民間企業の従業員と公務員、またそれぞれを親に持つ人同士では、多分世の中を見る目は同じでは無い。外国のルーツを持つ人が身内に誰一人いない人と、在日コリアン2世とでは日本や国家というものの見方はきっと変わるだろう。他に今ぱっと思いつくだけでも、性自認(およびそれがマジョリティーであるかどうか)、所得、年齢、ハンデの有無、家族構成、居住地、育った環境などなど、社会には様々な属性を複合的に持っているひとがいる。全ての構成員が均一化された社会などあり得ない(あり得てしまってはまずい)以上、社会とはこのような多様性を包含したものだ。そして、ある程度長い期間をその属性とともに生きてきている一個人がそこから完全に抜け出して自由な思考を手に入れることは極めて困難であろう。実際には完全な幽体離脱は容易では無いのだ。

 

それでも、むしろそうであるからこそ、自分と属性の異なる他者に思いを寄せる努力は絶対に必要だ。もちろん、自分が不利益を被らないこと、そうならないように票を投じることは大切である。しかし、社会を構成する全員が自分「だけ」のことを考えていると何が起こるかと言えば、いつまでもマイノリティーのひとの権利が損なわれた状態が続いてしまうのだ。民主主義の多くの場所では多数決が採用されていて、マイノリティーの当事者だけでは多数決に勝つことはできない。例えば同性婚を合法化しようとする候補者がいたとして、仮に同性婚をしたい当事者だけしかその候補者に投票しないとしたら、絶対にその人は当選できないだろう(もちろん実際の選挙では他にも焦点となる公約は多数あるだろうが)。同性婚を認める人を議会に送るには、当事者では無いが彼らに理解し協力する人々、すなわちアライの存在が必要不可欠となる。これは同性婚や性的マイノリティーに関する話に限らず何でもそうだ。自分の属性と関係無いと思うことであっても、できるだけ様々な属性のひとの立場に立って、できるだけ先入観や偏見を含まない努力をしてよくよく考え、支持した方がより多くのひとが恩恵を受けることができると判断した場合には、喜んでアライ(よく性的マイノリティーの文脈で使われる言葉だが、ここではもう少し広義な「マイノリティーへの理解・協力者」くらいの意味で使っている)になるべきだと思う。少なくとも、なる努力をすべきである。

ひとの属性なんてものは無数にあって、ある点ではマジョリティーの人が別の側面ではマイノリティーであることなどざらにある。誰もが当事者でありうるし、当事者になりうるし、近しい人が当事者である/になるかもしれない。「他人事」を他人事とみなして思考を放棄するべきでは無いのだ。