シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

習い方、出会い方、愛し方

ほとんど書き終えた状態で放置されていた下書きを完成させて投稿する。予め断っておくがとてつもなく長いので、そこはご容赦願いたい。

 

 

かつて私はピアノを習っていた。そして転勤族だった。

お世話になっていたのは某大手音楽教室で、そこのグループが運営する教室が全国にあり、転居先でもそこの同じようなコース(ちなみに個人とグループとあるのだが私は長らくグループで習っていた)で継続することができた。使用するテキストはオリジナルのもので、どこの教室でも同じものだったと思う。

そんなわけで私は「同様のコースを別の教室・別の先生・別のクラスメートと受講する」という、わりかし珍しいであろう経験を複数回した。大変そう、面倒臭そう、と思われる方もおられるかもしれないが、実のところ私にとっては転居を繰り返したことは圧倒的にプラスだった。

 

私は4歳からピアノを習い始めたのだが、最初に教わった先生は比較的厳しい方だった。私は泣き虫だったのでよく弾けなくて泣いていた(これは練習を怠けがちだった私のせいでもあるのだが)し、同じクラスの他の子も時々泣いていたように思う。もちろん練習をサボるのは褒められたことではないし、実際練習は大切だし、先生が間違っていたとは思わない。でも今振り返ると、幼児コースではまず「音楽を好きになる」「音楽を楽しむ」ところからスタートしたかったな、という思いは正直なところある。私は別にプロのピアニストを目指しているわけでは無かったのだから(他の子たちもそうだったかは知らないが、私の予想では本当にピアニストを目指すならばグループではなく個人コースを選ぶ場合が殆どではないかと思う)。

幼稚園を卒園するタイミングで引越し、新しい教室に通い始めた。この教室には一番長く居て、途中で仲間が増えたり減ったりしたし、先生も途中で一度変わった。グループコースだったのでアンサンブルをやることもソロ曲を練習することも両方あったが、後者に関してはどちらの先生も基本的に「原則テキスト(ソロ曲とアンサンブル用の曲がいくつかずつ載っており、一年くらいのスパンで新しい本に移る)のソロ用の曲からやりたい曲を選んで練習する。テキストの曲が全部終わったら自分で好きな譜面を持ってきて練習できる」というシステムだった。…のだが、当時の自分はそこに載っていた曲(オリジナル曲もあればギロックあたりの簡単な曲もある)をあまり好きになれなかった。綺麗ではあるし嫌いではないけれども、モチベーションが湧くような感じではなかった。そこに元々の怠け癖が合わさってしまって、モチベーションが湧かず練習しない→なかなか弾けるようにならない→完成するまで時間がかかってしまう→全ての曲を練習し終わる前に次のテキストに進む、というのを数年間繰り返していた。つまり、「自分が弾きたくて自由に選んだ曲を練習する」という経験が、小学生のほとんど終わり頃まで全くなかったのだ(尤もこの頃はクラシックのピアノ曲も殆ど全く知らなかったので、仮に自由に選んで良いと言われても逆に戸惑ってしまっていたかもしれない。なので教室の方針を責めたいわけではなくて、とにかく私は弾きたい曲を弾くという経験をしていなかったのだ)。先生方には大変申し訳なかったが、正直なところこの頃はまだ嫌々教室に通っていた節があった(私は別に通うことを親に強制されていたわけではない。単に「続けてきたのに今やめちゃうのは嫌だ」という意地だけで続けていた)。練習はずっとサボりがちだったし、たまにだが相変わらず泣いてしまうこともあった。幼児の頃に音楽を楽しむことを会得しきれないまま、与えられる課題をどうにかこなそうとする。あんまり楽しくないから練習したくない、練習しないと弾けない、弾けないと楽しくない。実に悪循環である。

 

これを変えてくれたのが、この次の小学校卒業直前の転居だった。次の教室の先生の方針では、テキストの曲に拘る必要は一切無く、テキストから選んでも良いし自分で譜面を持ってきても良かった。ちょうどこの転居の数年前からほんの少しずつクラシック音楽に関心を持ち始めていた私は、ピアノソロ曲が多数入った全音の楽譜を買って、初めてのクラシック曲としてショパンノクターンOp.9-2を選んだ。元々思い入れがあったわけではなかったが、ちょうど少し前にちょっとした演奏会で他のクラスの子が弾いていたのがやけに印象に残っていたからだった。

この時が転機だった。練習すればするほど魅了され、練習するのが楽しく、初めて自分から練習にのめり込んだ。その後も色々な曲をやったが、殆ど全てオリジナルのテキストではなく全音の譜面から選んだ。私でも聴いたことがある有名な曲、選んだ時に初めて知って好きになった曲、色々あり、全部が全部のめり込めたかと言われると微妙だが少なくとも昔よりはずっと楽しかった。中学くらいになって——習い始めて10年近くも経って——ようやく自分に「音楽が好き」という自覚が芽生えた。

 

音楽に限らず、今何かを誰かに習っている人、習っていたけどやめてしまった人、またお子さんなどに何かを習わせている/習わせようとしている人に伝えたい。

先生、教室、他の生徒など、環境が合わなかったからと言って、習ったものそれ自体が向いていなかった、合わなかった、本当に好きではなかったのだと決め込んでしまわないで欲しい。また、楽しみなこと、目標にしたいと自分から思えるようなことに出会えないとしても、それは必ずしもあなたに合わなかったからとは限らない。

 

せっかく習うのならば、まずは少しインプットを増やしてみると良いかもしれない。音楽ならば色々な音楽(出来ればプロの演奏、生でなくても音源だけでも良いから)に触れてみる。モーツァルトが退屈に感じても、もしかしたらショスタコーヴィチはそうではないかもしれない。クラシック音楽がピンと来なかった人でもジャズやフュージョンが好きということはあるかもしれない。

何かを始めた最初というのは、誰だってアウトプットが下手くそなものだ。素晴らしいと思える、目標にしたいようなインプットに出会えない限り、下手くそな自分のアウトプットしか向き合うものが無いわけで、その状態で折れずにモチベーションを保つことの難しさは容易に想像がつくだろう。

そうしてインプットを増やして「やっぱり好きかもしれない」と思えたとして(ここで「かもしれない」でも十分というのは大事なことだと思う。その時は良さが分からなくても、後で目覚めて「やっておけば…」「続けておけば良かった」と後悔する日が来るかもしれない)、それでもやっぱり今の教室に通うのはどうにも億劫だ、と思うならば、可能であれば環境を変える方法を模索して欲しい。他の日時を選んだり、他の教室や先生を探したり。大手であれば、系列の他の教室があるかもしれない。他にも個人が運営している教室もある。地理的条件が許せば、一度それらの見学に行ってみると良いかもしれない。プロの先生にも当然色々な人がいて、練習の進め方、教え方(厳しいか優しいか放任気味か)、レッスン時の雰囲気(時々雑談も挟みつつ和やかにやるのか、時間いっぱいみっちり集中するのか)、などは様々だ。もちろん人間同士なのでそれ以外の点でも相性の良し悪しはある。また、グループで習っている場合はクラスメートとの相性もあるだろう。

それらの条件が仮に改善できるとしても、やっぱりあまり好きになれないということもあるかもしれない。それならば無理に習い続ける必要は無いだろう。ただそれでも、可能ならば、ほんの少しだけでも触れ続けて欲しい。音楽であれば、遊び半分でもいいから家で楽器に触る時間を確保するとか、せめて演奏を聴く機会を無くさないだとか。スポーツや語学など他のことであっても同じだろうと思う。ひとはいつ何がきっかけでどんなことに興味を持つか分からない。もちろん人生において何か趣味を始めるのに遅すぎることは基本的に無いと思う。が、やっぱり大人になってから完全に初心者として始めるのと、もっと若いうちに少しは触ったことがあるというのとでは、伸びやすさは変わってくるに違いない(前者が全く伸びないわけではなく、後者の方が伸び"やすい"という意味だ)。そして、やっぱり人間伸びやすい方がモチベーションは保ちやすいと思うし、モチベーションが高いほど楽しいと思うし、楽しいと思えることをやるほど人生は豊かになると思うから。