シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

下書きから溢れ出る

私は自分の内から勝手に湧き出す欲求を否定はしない。私はそうせよという教えを有する宗教の信者ではないから。また多少の科学的知識を持っており、それが邪悪な存在がもたらす呪わしい何かではなく、有性生殖をする生物種の一個体として不自然ではない生理的欲求であることを知っているから。しかし、それなら全面的に・無条件に肯定できるのかと問われればできない。私は己の欲求を肯定し、同時に嫌悪している。私の理性の部分がそうしている。存在「していてはいけない」ものではないが、存在「して欲しくない」ものである。

 

他者に害をなさないのならば、内心は完全に自由だ。どんなに人を殴るイメージをしようが尊厳を犯すさまを想像しようが、どんなにそれらが具体的であろうと、それが行動を一切伴わないのであれば、誰も不幸にならないし誰からも罰せられることはない(実行はしないが口に出す、とかそういう例は既に他者を害しているので除く。あくまで本当に何一つアウトプットをしていない場合の話である)。

頭ではそうと分かっていても、それでも納得しきれない自分は確実にいる。私の中に、無意識のうちに他者に(内心で)欲求を向けてしまう自分もいて、しかしそれを内心であっても気持ち悪いと嫌悪する自分も同時に存在している。

 

 

私は、自分が恋心を抱く相手と性的関係(というよりもう少し広義の、恋人という関係性)に至った経験が無い。当事者双方(あるいは全員)の合意を前提とした、そういう関係を他者と形成する経験を殆ど持っていない。自分の欲が他者に「許された」経験が乏しい。だから欲の持ち方が分かっていないまま、かと言って捨てることもできず、気持ち悪さを持て余したまま、抱えたままひとり立ち尽くしている。

私の理性はそれが抑圧すべきものではないこと、かつ抑圧できないものであることを知っているし、同時にその暴力性を理解している。他者をエゴの充足の手段として見ているようで、理性から最も遠い場所にある存在に思える。

しかし、私は理性のみからなる存在ではない以上、理性でどうしようもない部分はどうしてもあるのだと思う。そういうものなのだろうと分かってはいる。それでもなお、完全に受け入れることは未だできない。