シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

過去と未来と混沌

毎週毎週考え方が変わっていくように思える。自分が信用できない。

 

正直、書きかけで完結させられず放棄された記事のなりそこないがいくつもある。それらを見ていくとあまりにも今とは別の私がいる。

 

ある事実を知った直後に書きかけていた文章はこうだ:

「私がその先を望んでいるかと言われれば、否定はできない。あの言葉を聞く前と後で何かが変わったかと言われると正直分からない。最初から本気でその先を望んでなんかいなかったような気もするし、未だにお伽話のようなお花畑のような未来を夢想する能天気な自分がいるような気もする。その感覚自体は以前とほとんど変わっていない。ただ、少しの苦さが加わっている。」

 

その後少ししてから書いたのはこう:

「私の中に、本当に好きなのか?と訝しむ者がいて、そう認めざるを得ないのでは?と観念する者がいる。立場上こうなのだし、ああいうところもある人だし…などと反対意見を述べる者もおり、でもこれこれはこうだし、こういうところは本当に素敵、とそれらをひっくり返しにかかる者もいる。ふとした瞬間に根拠の無いお花畑じみた未来を夢想する空想家がいて、この先どうなるだろう、どうしたものか…と頭を抱える現実主義者がいて、とりあえずしばらくは現状をありのままに受け入れてそのまま過ごしてみよう、と思考を放棄する者もいる。

しかしこれらの自分たちのさらに下の階層には、容易に揺らがない確信じみたものが据わっていて、彼らの言動は皆その上でのお遊戯会のようなもので。彼らの足踏みで多少揺らすことはできても、舞台ごとひっくり返すことは困難だ。結局のところ、私の奥底にいる何かが強大な決定権を有しており、それは選ばれた相手を容易に離しはしない。判定基準は曖昧で、最後は直感と本能の管轄であるにもかかわらず。」

 

 

少し前。角砂糖の蜂蜜漬けのような、根拠も無い甘すぎるお花畑を空想する私と、様々な理由を挙げてそれを説得しようとする(も空想家を止められずにいる)現実主義者の私がいた。

悩み、混乱しながら、何とか自分の幸福に繋がる道を見出さなければ、せめて見出そうと努めなければ、という強迫観念に駆られながら、暗い荒野をめちゃくちゃに迷走する裸馬のような私がいた。

 

今はどうかと言えば、無くせない感情を適度に宥めながら(殺せるほど私は器用ではなかった)、醒めかけた空想家を飼いながら(これもやはり完全に殺せはしないと思う)、現状をそのまま受け入れる頭がようやくできてきた、と思っている。事実を知りながらも好意は消せず、でも下手な夢想はある程度落ち着いてきて。「そういう」関係性でなくとも、そこそこ長い時間近くに居る今を楽しむかな、という方向に、少しずつ腹が据わりつつある。そういう意味で、一応気持ちとしては安定している。

 

しかし無論、それが将来的な幸福に繋がるとは思えない。その人は交際相手ではない。仮に人生設計だ何だ言うのならば、叶う見込みのない片恋をずっと抱えているだけの時間は事態の進展に何も寄与しない。

そもそも自分はどうしたいのか?誰と、どんな人と生きたいのか?そもそも誰かと生きたいのか?ひとり「が」いいのか?ひとり「でも」いいのか?人生100年とは言ったもので、年齢的な呪縛は昔よりは弱まってきているだろうが、それでも消えはしない。それ抜きにしても、学生時代のように「近い将来全く新しい環境と出会いが待っている保証がある」状態では最早ない以上、多少は考えなければならない時期なのだろうと思う。しかし、自分が生涯後悔しない選択をするには私はまだあまりにも幼いし、行動を起こすには私はあまりにも臆病だ。

結局、多分来週からも当分の間、私は今置かれた場所を密かに喜びながら、未来から目を背け続けるような気がする。しかし先週までの自分ですら時に他人のように思えるわけだから、7日後には全く違うことを言っているかもしれない。一方で自分が変に執念深い側面も(時々)持っていることを知っているので、今後何年もそのままかもしれない。どうだろうか。未来はやはり分からない。