シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

あるサピオロマンティストの「知性」の定義

常々私は「知的な人が好き」と表明してきた。「好き」は広義/狭義どちらの意味でも。本当はここに楽器ができるとか別の条件が上乗せされるともっと素敵なのだが、今年得たたくさんの新たな出会いから振り返るに、やはり「知性」こそが第一条件であり必須であるようだ。

私の脳(と子宮)が思う「知性」とは何か。それを見極めたくて、私が他者に求める、「知性」という言葉で表現しているものが何なのか考えてみた。「知性」を私が因数分解すると、2つの要素に分けることができると分かった(尤も、厳密にはこの2つは全く重複しない別個の概念とまでは言えないかもしれない)。

 

まず「視野の広さ」。

ひとは性質の近い者同士で集まりたいものだ。180度価値観の違うひととは、いっとき会話するくらいなら刺激になるかもしれないが、四六時中一緒に暮らすのは疲れてしまうだろう。

でも(当たり前だが)全く同じ人間なんて居ない。人間は完全に孤独では生きられないから、同じではない他者と生きなければならない。自己と他者との「同じで無さ」に対する予測力と受容力には、大きな個人差があると思う。

他者の「同じで無さ」に対して関心を払わず無視する人、受け入れようとしない人、また寛容なようで実際には自他の差異をフラットに受け入れきれない人もいる。本当の意味で他者の「同じで無さ」に向き合い、ニュートラルに受容しようとする営みは、視野が広くなければ不可能だ。自分の知っている世界を全てだと思っている人間には、自分と異なる世界を生きる人間の視界なんて想像することはできない。

もちろんひとりの人間が森羅万象を知ることなんてできないけれども、せめて自分の知っている地平線の先にも世界が存在することくらいは想像できてほしい。洞察の翼で地面から飛び上がり、自分の視野を広げるなり離れるなりできてほしい、ほんの数メートルでもいいから。

 

もう一つの要素は「思慮深さ」。

視野の広さが二次元方向の広さ(大きさ)だとすれば、こちらはZ軸方向の深さと言える。ある特定の物事について、縦に深く掘り下げることのできる思考力。

別に何でもかんでも深読みしていちいち考え込む必要は無いのだ。ただ、そのポテンシャルというか能力は有していてほしい。何か小難しい議論を、しようと思えば一緒にできてほしいのだ。私の話に対して、「難しそう」「私には分からない」と理解を諦め、拒まないでほしい。理解しきれなくてもいいから(私だって全てを理解できるわけではないし、そもそも私が説明下手なせいかもしれないから)、理解しようとするそぶりを見せてほしい、し、さらに望むなら私の話を興味深そうに聞いてくれるとこの上なく嬉しい。

 

両者を併せ持っているひとのことを私は「知的な人」とみなし、そういうひとたちから「知性」を感じる。そして私が好きになるのはそんなひとだ。

彼らは自らと異なる価値観をニュートラルに受け入れようと努めるし、マイノリティーを色眼鏡で見ない(ように努める)。自分の知らない世界に対して決めつけをしないし、知的好奇心をもって向かい合う。

 

私は、そういうひとと過ごすとき生きやすいと感じる。私自身、世間の多くの同年代が聴いている音楽に疎かったり、同じものを好きな人になかなか出会えないマイナーな趣味嗜好を持っていたり、世の中の女性の多くがごく普通に関心を抱く物事にあまり興味が持てなかったり、そういう要素がいくつもある(そもそも自分の性自認は「消極的女性」だと思っている)。だから、私を「26歳女性」という枠組みを前提に理解しようとされると違和感がある。私という人間をそのまま私として解釈してほしい、せめてその努力をしてほしい。

私は年齢性別国籍と無関係に自分の「好き」に忠実に生きたいと思っている。だから、いつでも容易にマイノリティーになりうる。私はたまたま女性の身体と(消極的)女性の性自認を持って生まれ、たまたま性的指向が異性(男性)に向かうだけだと思っていて、性的な意味でも「偶然マジョリティーに近いところにいるだけ」だと思っている。日本という国で、日本以外のルーツを持たない両親のもとに生まれたことだって偶然の産物だし、そのまま日本を出ずに生まれ育ち働いているのも偶然でしかない。人間誰しも、あるところではマジョリティーでも別のところではマイノリティーになりうる(以前もどこかで書いたことがあるかもしれない)。そういう事実に目を向けたことがあるひとと無いひと、どちらと居るのが生きやすいか、想像するのは容易いだろう。

 

言うまでもないが、これまで述べてきたのは(私にとって)人間としての理想的な姿であり、従って私自身もそうでありたいと常に願っている姿である。あらゆるひとを無自覚のうちに傷つけてしまわないように、無意識のトゲを知性で丸め、隠すよう努めている。…まだまだ未熟だろうけれど。

 

 

年末に思いついて、大晦日に上げるつもりだったこの記事だが、下書きで温めているうちに年が明けてしまった。昨年は環境が大きく変わり、色々な––幸い多くはプラスだったが––出会いがあった。今年はどうだろうか。願わくば、昨年以上に知的なひととの出会いに恵まれますよう。そして、こんなぶちまけたような乱文を最後まで読んでくれたあなたにも。