シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

セクシュアリティーの話・続編

過去に前編中編後編と分けて長々と自分のセクシュアリティーについて書いてみたことがあった。そしてこの当時は自分の性自認について「多分シス女性だがもしかしたらXジェンダー寄りなのかも」「表現したい性が診断ではトランスジェンダー的と出てきたけどそんなにその実感は無い…」くらいのことを書いていたと思うのだが(中編参照)、数ヶ月経った今ならその当時よりもう少しはっきりと言語化できそうな気がする。

 

まず「こころの性」に関しては、「消極的女性」で変わりないと思っている。自分の肉体の女性性に不満や嫌悪感を抱いたことは無いし、やっぱり好奇心以上の動機で男性になりたいと思うことは無いのである。Xジェンダーという感じでも無いのかなと思う。どちらでも無いとか不定とかでは無くて、女性は女性でベクトルは合ってる、ただその「自分は女性である」という性自認の強度があまり強くない、というだけなので。

問題は「表現したい性」の方である。以前診断ではトランスジェンダーとか出てよく分からないな、などと思っていたのだが、私はこの「表現したい性」がXジェンダー的なのだと気がついた。そう、私は男性の肉体までは望まないが、いつもいつもフェミニンな格好をしたいとは全然思わない。逆にいつも積極的に男性的な格好をしたいというわけでもない。現実には自分の顔面や体型や手間や色々なものを気にしてしまうので少し事情が変わってくるが、仮に自分の容姿や面倒臭さなどを全て度外視して理想的な服装を考えてみると、その日の気分でフェミニンなかわいらしい格好をしたり、フラットに中性的な格好をしたりできたら一番楽しそうだなあと思うのだ。さらに男性的な格好に憧れる気持ちも少しある。まあ男性の肉体で男性的な格好をするのが一番「映える」のは確かだと思うし、それは少し憧れるけれども、24時間365日そうなりたいとはそんなに思わない(1日だけならなってみたい気持ちはあるが)。

表現したい性はこころの性と全く無関係では無いかもしれないが、やっぱり両者には少しだけ差異があるのかなと思う。私はその時によって色々な格好をしてみたいと思うが、あくまで「消極的女性」であり、例えば中性的な格好をしたとしても自分の内側の女性性を捨て去るわけではない、という感覚。何だかややこしいが、これが今の自分の実情に一番近い。

 

こうして自分のセクシュアリティーについて考えてみればみるほど、大まかに言えば「マジョリティー」である自分のような人間でも細かく見ていくと複雑であることに気づかされる。もはやセクシュアリティーに関してマジョリティー/マイノリティーという括りさえあまり意味が無いのだろうと思う。一見同じ区分に分類される人たちも、細かく細かく考えていくとやっぱり一人ひとり微妙に違いがあって(時には当人さえも気がついていないだろう)、性のあり方は70億通りあると言っても過言では無いのだろうなと思う。