シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

昔話

ちょっと甘くて気色悪い昔話。

 

以前書いた通り、かつて私はピアノを習っていて、転居により何回か通う教室が変わるのを経験していて、習っていた期間の大部分はグループコースにいた。このグループというのがピアノの生徒とエレクトーンの生徒とが混合で、数台のエレクトーンと1台のグランドピアノが置いてある大きめの教室で、1人ずつ先生に見てもらったりアンサンブルの練習をしたりしていた(どの音楽教室か分かる人もいそうだけど一応伏せておきます)。

10年以上前にいたある教室で、同じグループにエレクトーン弾きの男の子がいた。学年は同じだったが学校は違った。通っている学校と、あるスポーツをやっているらしいことくらいしか私は彼について知らなかった。グループで習っていれば大抵は仲間同士で仲良くなるものだと思うのだが、ここは珍しく仲間同士の会話が全然無かった(私が転入してきた時には既にそうだった。流石にその空気を破ってみんなに話しかけられるほどの度胸は無かった)。だから私は彼と言葉を交わした記憶は無い。

彼はあるジャンルの音楽が好きで、よくそのジャンルの曲を練習していた。当時の私はその中の一番有名であろう曲を断片的にテレビで聴いたことがある、というくらいで、それまでの人生で殆ど全く接点の無い音楽だった。ある時の個人発表会で、彼はその一番有名な曲を弾いた。衝撃的だった。聴いたことがあった曲だし毎週聴いていたのだから練習していたのは知っていた。のに、めちゃくちゃかっこよく見えたしかっこよく聴こえた。シンセサイザーチックな音を駆使したバチバチにエネルギッシュな音楽。何となくクラシックのピアノ曲を好きになり始めたばかりの、その他のジャンルは全然知らないウブなピアノ弾きの私に、平たく言えばその演奏は「刺さった」。その時を境に私は彼に対して好意を自覚するようになったのだった。

 

今考えるとツッコミどころだらけの話だ。これまでの私の人生で、まるで会話をしていない人に恋愛感情を持ったのはこの時だけである。容姿がタイプだったわけでもない(というかどんな人がタイプか当時は分かってなかった。今もよく分からないが)。私は彼という人が好きだったのか(全く話したことがないのに?)、演奏中の彼が好きだったのか、彼の演奏が好きなだけなのに好意と勘違いしてしまったのか、何なら彼が好んで弾いていたその音楽ジャンルが好きだっただけで彼である必要は無かったのか、まるで分からない。

色んな音楽ジャンルの存在を知っていて、気になった曲をすぐにYouTubeで聴くことができ、アマチュアのオケで無数の奏者たちと知り合った今の自分なら、「この人の演奏が好き」と「この人に恋愛感情がある」とを区別する術を知っている。音色が好きだったり演奏の仕方がかっこよかったりする「推し」の知人は何人もいるが、彼らにいちいち恋愛感情を抱きはしない。でも当時の私はその区別の仕方を知らなかったのかも知れない。或いは自分の知らない世界を教えてくれた、私の世界に風穴を開けてくれた、そういう存在に(私の中で勝手に)位置づけられた結果その気になってしまったのかも知れない(勿論彼は私に教えてくれようとしたわけではない。彼はただ自分の好きな曲を選んで弾いていただけで、たまたまそれが私に刺さるものだっただけの話)。とにかくそんな気になった理由は自分でも分からないし、それが本当に恋愛感情的なものだったのかも分からないが、少なくとも当時の私はそれを恋心だと思っていた。

 

私のこの感情には、別に進展も何も無かった。当時の私にとって、片想いから先に進むという発想はそもそも無かった。胸に秘めているだけで楽しかったし、自分に自信も無いし、それ以上のことなど望まなかった。やがて受講形態がグループから個人に切り替わって彼と顔を合わせることは無くなり、その後私は引っ越した。転居後数年間は当時の先生と年賀状のやり取りがあったのだが今はもう無い。まともに話したこともない当時のグループの仲間たちの連絡先を知るはずもなく、彼らが今どこで何をしているのか私はもう知る由も無い。

こんなに勘違いの可能性の高そうな恋だったのに、想うだけで別に何も起こっていないのに、それでも当時の時間は私の中でやけに美化された記憶として在り続けている。それは私にとって音楽で人を好きになった初めての経験であったし、まだ性的欲求と恋愛感情とが結びついていなかった頃の「純粋な」感情だったからであろう。そのグロテスクなまでに一方的な"美しさ"を孕んだ思い出に、未知の刺激的でかっこいい音楽が彩りを添える。あれだけ強いインパクトを持ち、それでいて性と一切結びつかない強烈な純粋さに包まれた、ただ若く幼く美しいだけの恋心は、もう二度と抱くことはできないかも知れないと思うのである。

 

無論彼に対してもう当時のような気持ちは無いが、今でもそのジャンルの音楽は大好きだ。ほんの数日前に、彼が演奏していた曲を含む何曲かをiTunesで購入したくらいには。