シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

現実逃避に、一考

今後の自分に待ち受けているスケジュールを考えていたら、毎度のことだがやっぱり気が沈んできてしまった。違うことを考えたいな、と思っていたらふと思い出した話を、せっかくなので今ここに書き留めておこうと思う。

 

知人に化粧をする(少なくとも戸籍上は)男性がいる。あまり親しいわけではなく、また寡黙であるこの知人の性自認などについて私はちゃんと知っているわけではない。少なくとも服装が女性らしいわけではないし、髪を伸ばしているわけでもない。化粧だって、私は人から聞くまで気がつかなかった程度のものである(私が他人の身なりに対して鈍感すぎるのもあるかもしれないが…)。この人に関しては、ある楽器が上手く、かわいらしいキャラクターが好きで、インスタの投稿が(ステレオタイプ的な)女子大生のようにキラキラしていて、実は化粧をしているらしい、ということくらいしか私は知らない。

昨年別の知人がこの知人のいるところで「○○、お化粧してるんですって!すごくないですか?」と言及してきたことがあった(この口調は別に変な意図があるものではなく、単に発言した人が私に対して敬語を使っただけである)。この時私はどう返すのが最善か一瞬迷ったのだった。私はこの人の美的感覚も、どんな性として生きたいのかも、どういう格好をすることを望んでいるのかも、何も知らないから。

私は確かその時「女子力」という言葉を避けた。「偉い」も避けた。「意識高いね〜」と、できるだけ自然に返したんだったと思う。これも最善の返答ではないかもしれないなと、内心ヒヤヒヤしながら。

 

この人は私の対角線上に位置している人かもしれないと思う。一般的にはある程度以上の年齢になったら化粧をするものだという目で見られがちな、女として生まれ、しかしながら化粧へのモチベーションをほとんど持ち合わせていない私。化粧をしないものだという目で見られがちな、男として生まれ、それでも何らかの信念に基づいて少しだけ化粧をしているその人。その人が何故化粧をしているか私は知らない。女性的になりたいという気持ちの上でやっているのか、性自認とは無関係で単に美的意識が高いからなのか、私は知らない。だから「女子力」などという根拠のないしがらみの塊みたいな言葉を使うのは嫌だった。

この社会で、こういう世間の目のある中で、自ら進んで化粧をする(少なくとも戸籍上は)男性の人に対して「偉い」もなんか違うと思った。多分自ら進んで、好きでやっているのだろうから。サッカーが好きな子供がサッカーをして遊んでいるのを「偉い」と褒めるのは何だか変な感じがする、というのと同じようなものだ。

 

私はその人と対角線上に位置するかもしれないが、「どの性だったらどう在らなければならない」みたいな、そういうしがらみは嫌いだ。だから、私は私がそういう人間であるということを活かして、少しでもその人のありのままを肯定してあげたいと思ったのだった。とはいえここまで書いてきたこと全ては私の内的世界の中での倫理でしかなく、その人が実際にどう感じたかは私には分からない。願わくば気分を害していないと良いのだが。