シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

移り気なテセウスの船

気づけば数ヶ月放置していた。書きかけの記事はいくつもあるのだが。

日曜の夜。頭が痛い。気圧痛なのか(今日はそこまで気圧の乱高下は無い筈なのだが…)、日曜夜ゆえの精神状態の産物か、もしかしたら件の疫病なのか。少しの体調不良にも疑心暗鬼に駆られる日々。体調不良者に優しくなったのかもしれないと思う一方、体調不良の理由を明らかにすべきという圧力もかかりやすいであろうこの社会はそれはそれで生きづらいとも思う。気圧頭痛くらいならいいが、例えば従来なら「体調不良」でぼかせていた生理痛をどう上司に伝えるか?あまり詳細に言いたくはないが、単に体調不良と伝えるだけでは相手を不安がらせてしまうかもしれない…と人知れず悩む女性などは多くいるのだろうな、と思うのである。

 

というのは今日書きたかったことの本題ではなかった(重大な問題であろうことは間違い無い)。

最近、というか今年度になって、己の大切にしていた筈のものがどうでもよくなってゆくのを感じ、それを恐れる感情がある。大切だった筈のもの——具体的に言えば音楽である。

 

大学生になって以来、今年までは、毎年一度はアマチュアのオケに乗っていた。大抵は大学オケで、昨年一度だけ社会人オケに乗せていただいた。そして今年もあわよくばそのオケに乗りたかったし、別のオケに乗せてもらうことが決まっていた。筈だった。

ご想像の通り、オーケストラは大人数だ。何も考えなければ密になるし、屋外でやるわけにはいかないし、管楽器奏者はマスク着用は不可能。このご時世にやるにはなかなか大変な営みなのである。私のオケが予定していた本番は夏。ようやく辛うじて練習ができるかできないかと言ったところ。お客様を呼ぶことのリスキーさもあり、春に練習ができていないこともあり、首都圏のアマチュアのオケが本番を決行するのは無理があった。

そんなわけで、その本番は丸一年延期となった。そして私はここ6年で初めて、一切オケに関わらない一年間を過ごすこととなった。

こう何年も貴重な土日を費やして練習に行き、一つの団体に留まらず新しい団体にも参加させてもらっていた人間が一年何もできなくなり。普通に考えれば寂しくなるところだ。しかし、私の中にそんな気持ちは恐ろしいほどに希薄だった。下手をすれば今年度は楽器の自主練どころか全く触らずに終わってしまうだろう。さらに来年、新卒1年目かつ日本のどこにいるか不明な状態かつ未だコロナ禍が尾を引いていそうであることを考えてしまうと、オケを再開するのもあまり気が進まない。良くて数年後か。しかしこんな状態の私が、数年ものブランクの後に楽器を再開しようなどと、果たして思えるだろうか?

 

私は4歳から高校生までピアノを習っていて、高校生から弦楽器をやり始めた。4歳から去年まででどの楽器にも触らなかった期間は大学受験のための1年半くらい(浪人したため)しかない。楽器をやっていなかった時期というのはそれだけ少なく、かつて自分は楽器をやっていなければ自分は死んでしまうような気がしていた。己の核の一つだった。しかし案外そうではないのかもしれない。無ければ無いで—いや、全く縁の無い生活は流石に少し悲しい気がするけれど、聴くだけでも満足できてしまうのかもしれない。本当に?私が?

 

しかし考えてみれば、私は元来怠惰なのであった。たとえ好きなものであっても、何らかの外的要因にお尻を叩かれなければなかなか実行できない。オケだって、大学に入って大学オケに入団したので続けられているだけで、例えば本番もレッスンも何も予定が無いのに自ら進んで練習を継続できるかと言われれば一切自信が無い。現にピアノは高3でレッスンを辞めてしまって外からの動機が失われてしまった今全然触らなくなってしまった(尤も今住んでいる家の住宅環境のために楽器の練習をやりにくいという事情もあるにはあるが、それでも全くやれないわけではない)。

 

ややこしいのだが、別に演奏が楽しくないわけではない。そうならば最初から大学オケや他の団体に興味など持たないし、入ったとしても途中で辞めているだろう。あがり症なので緊張もするが(弦楽器なのでソロなんか無いのに)、楽しいは楽しい。ピアノの発表会はあまり好きではなかったが、一人で弾くのは好きだ。演奏自体は好きなのだ。腰が重くきっかけが無いとなかなか継続・再開ができないというだけの話で。

しかし、いくら己の性質を自覚しているとはいえ、これまでの人生のそれなりに長い時間の間、楽器をやっているというのが自分のアイデンティティーの一つであったのだ。それが無くても案外寂しくないんだなと自覚してしまったことは、自分の中ではなかなかにショッキングであった。特に、受験や就職などに伴って「忙しいためにやりたくてもできない」のであるならばともかく、コロナ禍に起因する「暇なのに練習できない」という状態に対してフラストレーションもなくすんなりと受け入れられてしまった自分が恐ろしい。

 

自分の人生に生涯欠かせないと思っていたものが、実はそうでも無いのかもしれないと疑い始める。私は自分の好きなもの=興味関心の対象をアイデンティティーの中の大事な部分に据えているため、これはなかなかに重大であった。自分という船にとって大切だった筈の部品が、実は案外要らないかもしれないと気がつき、海に棄てていく。人生の中で新たに海から拾って身につける物もあるかもしれない。それを繰り返せばやがて、全ての部品が入れ替わってしまうのだろうか。

テセウスの船。自己同一性。まだ就職もしていない、新しい世界に足を踏み入れていない今年にこんなことを考えることになろうとは。

「女」の多様性

SNSなどで、しばしばセクハラや性犯罪の被害の報告を目にする。その多くは女性と思われる方による投稿である(もちろん男性がそのような被害に遭われることもあるのだが、話題の性質上この記事では主に女性への被害に言及することを予め断っておく)。悲しいことに、「ほぼ毎日痴漢に遭った」だとか「昔はよく男の人に絡まれたりぶつかられたりしていたけど髪色を派手にしたら全く無くなった」といった話は、不運なたった1人のひとの話ではなく、時々見かけるものだ。時に彼女らが「女はみんなこういう目に遭ったことがある」とか「女はみんなこういう恐怖に怯えながら生活している」とか「男の人からは見えない世界がある」と言っている場合もある。私は、そのような恐ろしい話が本当にある/あったとしたら地獄だと思うし、嫌な思いをした女性たちには心の底からの同情と加害者への怒りを覚える。絶対に許せないと感じる。でも、同時に、心のどこかで小さくも確かな違和感を覚えてしまう。私にはそういった経験が殆ど無いから。

 

私は高校から今まで、もう10年近く電車通学を続けていることになるが、幸いなことに痴漢に遭ったことが殆ど無い。「殆ど」と書いたのは、よくイメージされる、満員電車の中で後ろから触られ逃げることもできず…というような経験が無いという意味だ。過去に一度だけ、そこまで混雑していない電車で何故か近くに来た知らない男に軽く触れられたことがあったが、あんなものはすぐに回避行動を取れたので一応大したダメージでは無かった(もちろん「その程度なら許容される」と伝えたいわけでは全く無いことは釘を刺しておく。心にダメージは受けなくとも、気持ち悪いし他人を最悪な気持ちにさせる加害行為だ)。また、性別を理由に知らない人に絡まれたりぶつかられたりしたこともあんまり無い。私はぼんやりしていて楽観的な人間なので、もしかしたら自覚していないだけなのかもしれないが……

 

私は別に嫌な思いをしたいと言うつもりは毛頭無い。被害を訴える女性たちを責めるつもりも、彼女らが嘘をついているなどと言うつもりも無い。当然、被害を受ける頻度や回数には大きな個人差があるだろう(何も美醜の問題だけで無く、おとなしめで抵抗しなさそうに見える人は標的にされやすいとも聞いたことがある。またもちろん容姿以外の個人の要因も関係し得るし、環境によっても大きく異なる筈だ)。己の欲求や勝手な都合で他人に嫌な思いをさせる行為は、どんな事情があろうともすべて等しくあってはならないし許されない。私は、自分が被った嫌なことの辛さを訴えるひとを非難するつもりなんかは一切無くて、ただ「全員がそうというわけでは無いんだよ」という小さな補足を一言付け足したい。それだけのことなのだ。彼女たちからは贅沢な悩みだと言われるかもしれないが、それでも「中にはそうであるひともいる」と「すべてのひとがそうである」とを同一視してしまうのは、理学の片隅のちっぽけな学生の1人として、どうしても許容すべきで無いと感じてしまうのだ。

 

同じようなことは嫌がらせ以外にも言えるように思う。例えば「生理はこういう症状があってこれだけ辛い、男性はもっと分かって」という投稿も時々SNSで見かけるものであるが、生理時の心身の調子も大いに個人差がある。当然このような投稿をする女性の多くが生理時(あるいは前後)に心身の調子を崩しやすい人なのだろうと思うが、これも「全員がそうでは無いんだよ」という小さな補足を添えたくなる。そういう辛さを毎月経験するひとの存在を否定するわけではなく、その投稿を見た男性が「自分の身の周りにいる女性すべてが毎月こういうものと闘いながら気丈に振る舞っているのか…」と考えてしまうことにほんの少しだけ待ったをかけたいのだ。私自身調子が悪くなりにくい体質であるのもあるし、逆にその投稿に書かれたものよりさらに大変な症状と闘っているひともいるかもしれない。また、病気などが理由で生理の無い女性も世の中には存在する。事情は個々人によって本当に大きく異なるのだ。

 

とにかく、「女性ならば全員が全員全く同じ経験をしている」とは間違っても思わないで欲しい。それは例えて言うなら「男性は皆滅多なことでは泣かない」とか「男性全員が高身長ゆえにどこかに頭をぶつけそうになることが頻繁にある」とか言うのと似ている(やや乱暴な例えだが)。全員が全員そうでは無いであろうことは多分誰にでも分かると思う。

けれど、実際に女性特有の理由によって生き辛さを感じているひとが存在しているのも事実であり、どんな性別のひとであれ、もしそのような女性たちがいたらどうか気を遣ってあげて欲しいし味方になる努力をしてあげて欲しい。そして私もそうしたい。

男性のみならず「自分はそうでは無いからそんな筈は無い、貴女が大袈裟に言っているだけ」と決めつけてしまう同性の存在も、時に女性たちを苦しめ得る。「誰もが同じでは無い」ということを誰もが認識し、その上で助け合い、寄り添い合う世界であって欲しい。

多様性とアライ

先日、とある選挙があった。結果に対して「良かった」「嬉しい」と安堵した人、「残念だ」「恐ろしい」と感じた人、「そうだろうな」と冷静に捉えた人、様々だったろうと思う。

 

ひとの価値観の多くの割合は、そのひと自身の属性から少なからぬ影響を受ける。それは政治思想においても然りだと思う。もちろん「親や周りがそう言っていたし多分正しい」ではなく、ちゃんと自分の頭で考える必要がある。自分の属性からある程度離れた目、さながら幽体離脱したような目で、客観的に、できるだけニュートラルな状態から、より良い道を選択する努力が必要である。

とはいえ、それでもなお頭の片隅かつ根幹の部分に、うっすらと、それでいてしっかりと根差している「志向」のようなものが、きっと多くの人にはあると思うのだ。矛盾したことを言うと思われるだろうが、どれだけニュートラルに、理性的に、先入観や偏見無く、選び取ろうとしても、何となくこちらを選ぶのはちょっと勇気が要る、というような選択肢が存在することはままあると思う。私にだってある(具体的な方向性は伏せるが)。

それ自体は別に悪いことでは無いし、ある程度避けられないことだと思う。例えば、民間企業の従業員と公務員、またそれぞれを親に持つ人同士では、多分世の中を見る目は同じでは無い。外国のルーツを持つ人が身内に誰一人いない人と、在日コリアン2世とでは日本や国家というものの見方はきっと変わるだろう。他に今ぱっと思いつくだけでも、性自認(およびそれがマジョリティーであるかどうか)、所得、年齢、ハンデの有無、家族構成、居住地、育った環境などなど、社会には様々な属性を複合的に持っているひとがいる。全ての構成員が均一化された社会などあり得ない(あり得てしまってはまずい)以上、社会とはこのような多様性を包含したものだ。そして、ある程度長い期間をその属性とともに生きてきている一個人がそこから完全に抜け出して自由な思考を手に入れることは極めて困難であろう。実際には完全な幽体離脱は容易では無いのだ。

 

それでも、むしろそうであるからこそ、自分と属性の異なる他者に思いを寄せる努力は絶対に必要だ。もちろん、自分が不利益を被らないこと、そうならないように票を投じることは大切である。しかし、社会を構成する全員が自分「だけ」のことを考えていると何が起こるかと言えば、いつまでもマイノリティーのひとの権利が損なわれた状態が続いてしまうのだ。民主主義の多くの場所では多数決が採用されていて、マイノリティーの当事者だけでは多数決に勝つことはできない。例えば同性婚を合法化しようとする候補者がいたとして、仮に同性婚をしたい当事者だけしかその候補者に投票しないとしたら、絶対にその人は当選できないだろう(もちろん実際の選挙では他にも焦点となる公約は多数あるだろうが)。同性婚を認める人を議会に送るには、当事者では無いが彼らに理解し協力する人々、すなわちアライの存在が必要不可欠となる。これは同性婚や性的マイノリティーに関する話に限らず何でもそうだ。自分の属性と関係無いと思うことであっても、できるだけ様々な属性のひとの立場に立って、できるだけ先入観や偏見を含まない努力をしてよくよく考え、支持した方がより多くのひとが恩恵を受けることができると判断した場合には、喜んでアライ(よく性的マイノリティーの文脈で使われる言葉だが、ここではもう少し広義な「マイノリティーへの理解・協力者」くらいの意味で使っている)になるべきだと思う。少なくとも、なる努力をすべきである。

ひとの属性なんてものは無数にあって、ある点ではマジョリティーの人が別の側面ではマイノリティーであることなどざらにある。誰もが当事者でありうるし、当事者になりうるし、近しい人が当事者である/になるかもしれない。「他人事」を他人事とみなして思考を放棄するべきでは無いのだ。

無彩色の優しさ

近頃、色々な議論や運動の結果として、世の中の様々な"black"と"white"のものの扱いに対して関心が高まっている。これまで無自覚に使ってきたその表現は、慣習は、果たして本当に「正しい」のか?それを問う営み自体は非常に大切なことである。しかし、問いかけた結果として既存の何かを変えていく勇気と同じくらい、「今まで通りで問題無い」「むしろ今まで通りの方が都合が良い」という結論に至る勇気もまた重要であり、(十分に議論を重ねた上であれば)どちらの結論を受け入れることも同じだけ容認されなければならない。すべてを頭ごなしに否定してしまうのは違う。反対意見に耳を貸さないのも違う。判断には常に理性が伴わなければならない。ひとびとの生活に関わることなら尚更。

 

昨日、あるニュースを見かけた。「オーストラリアのチェス連盟の委員が『チェスの白側が先攻とされるルールはレイシズム的だ』という意見に反論した」というような内容だったと思う(しっかり読めていないので誤っていたらごめんなさい。鵜呑みにしないで下さいね)。このニュースに日本語で言及したツイートに対して、「ここまで批判が出るのならば、いっそ赤と青など違う色の組み合わせに塗り替えれば良いのでは」などといったコメントが複数寄せられていた。各位がどれだけ本気なのか、あるいは取るに足らない指摘だと感じて冗談めかしてコメントしているのか、それは私には分からない。ただこれらを読んだ時に私が感じたのは、「もし仮にそれが実行されてしまったら困る人が出るだろうな」ということだ。

 

色弱」とか「色覚異常」という言葉を聞いたことのある人は多いだろう。近年では「色覚多様性」と言われることもある。これは3色型色覚(いわゆる「正常な」色覚)はあくまでマジョリティーであるだけで、それ以外のタイプの色覚も障害や異常ではなく差異に過ぎない、という思想に基づいた言葉である。私も同意見である(これは「2色型色覚の人は3色型色覚の人には分かりにくいカモフラージュも容易く見破れる場合がある」と昔読んだことがあるのが大きい。優劣というよりは、見分けやすいもの・見分けにくいものが異なるだけなのだと)。

とかく人は––特に五体満足だったり3色型色覚だったりするマジョリティーの人々は––自分と知覚の仕方が異なる他人の存在を忘れがちである。たとえ弱視全盲の人への配慮を忘れない人でも、視力はあるが色覚が自分と異なる人への配慮は忘れてしまいがち、ということはあり得ると思う。偉そうに書いているが、多分私も時々無意識にやってしまっている(グラフを描く時とか発表資料を作る時なんかに)。色というものは、同じような色覚を持つ人同士の意思疎通では大変便利な補助ツールとなるが、「色だけで」あらゆる他人と意思疎通を図ろうと思うのは危険である。視力を持つ全人類が同じ色覚を持っているわけではない以上、色だけでなく形も変えるとか、文字情報を併記するとか、そういう配慮は必要なのだ。

 

で、チェスの駒の色の話である。いや、これだけ運動が大きく、混沌としつつある今、チェスの駒だけでは済まないだろう。世の中のあらゆる「黒と白が対になっていて一方に僅かなアドバンテージがある物」が、昨今の「白黒狩り」の標的になり得る(「白黒狩り」という表現は私が考えた造語である)。身の回りの物の色に対して人種(差別)が想起されると言うならば、恐らく批判を回避するための最も穏当な策は「白黒以外の色に変えること」であろう。紫と緑のチェスの駒だったら、どちらが先攻だろうと恐らく人種差別的にはなり得ない(妙な組み合わせを例に挙げたのは、肌の色を指し得る"yellow"や"red"を避けたからだ)。が、それを我々と異なる色覚の持ち主が見た時に、我々と同じように区別できるとは限らないのだ。色覚のタイプは様々で、特定の色同士が区別しにくい人から、完全に無彩色の世界で生きている人まで幅広く存在する。そして、どんな色覚の人にも平等に区別しやすい2色の組み合わせと言ったら、やっぱり白と黒であろうと思う。下手に世の中の白と黒が無配慮のうちに有彩色に塗り替えられていくようなことがもしあれば、必ず困る人は出てくる。そしてそれは、チェスの駒の色を人種問題に結びつけて不快に感じる人の数よりも多い可能性が高い。

 

もちろん、様々な観点から検討し議論した結果として「やはり白と黒は相応しくない」「このルールは適切ではない」という結論に至ることはあっても良い(チェスの駒に限らないが)。それならばそれで、例えば一方の駒の形を少し変えるとか、駒にマークでも記せば良い。しかし、誰かが被るかもしれないデメリットを一切考えないままに、不快なものを感情だけで排除するのは間違っている。差別の段差を埋めようとしてかえって別の段差を作っては本末転倒なのだから。

…まあ私個人としては「チェスの駒やルールに文句をつける人は、チェスにyellowやredの駒が無いことをどう考えているのだろう?」と疑問には思うのだが。

 

 

この記事は繊細な問題に言及しているので、もしかすると私の不勉強が理由で誤った記述や不適切な表現が存在してしまっているかもしれません。もし万が一あった場合はご指摘下さるとありがたいです。

ふたりのтыとты

プライバシーやら諸々の問題のため、この記事はいつにも増して抽象的になることをお許し願いたい。また、この記事は予告無く削除される可能性がある。

 

私にとって彼はты(ロシア語の親称)である。そんなに大きな差ではないとはいえ、一応目下だから。つまり(少なくとも日本人的感覚で考える限りは)彼にとって私は目上であり、多少仲が良くとも普通はвы(敬称)の域を逸脱することは無い。まあ私の仲の良い後輩の中には時々敬語をすっぽかしてくる奴も居ないではないが、彼は真面目な人であるからそんなことは無い。だからいつだってвыだ。実際にロシア語で会話するわけでは無いのでイメージとしての話だが。

その距離感。近いようでいて全くもって遠い。正直に言うならば、悔しいし恐ろしいし悲しいし切ないし、永遠に感じられるほどに遠い。たとえ雑談する仲だろうが共に飲食する仲だろうが所詮私たちはтыとвыという型の中に居て、いつまでも"ふたりのтыとты"にはなり得ないのだ。その間にある薄膜のように見えるものは実のところ鉄の殻だ。こちらだけがこじ開けようと足掻いても何の意味も無い。先方にもそうしたいという意思が無ければ、絶対に叶いはしない。そしてここ数年、さらに言えば少なくとも現在の彼はそんな意思を抱くことは無い。抱きようが無い。万が一(実際には億が一くらいの話だが)そんなことが起きようものなら彼は裏切り者となり、やはり私は幸福にはならない。倫理を取ろうが欲を取ろうが私に幸福は無い。

いや、厳密に言えば私が幸福になる道が無いわけでは無い。彼(ら)が真っ当な手順を踏んだ上で別々の道を選ぶことがもしもあったならば、さらにその上で件の意思を持ってくれたとしたら、私は晴れて解放される。しかしこれはもしものまたもしもの話であって、確率が有意にあるという話では無い。まず一つ目の仮定も今私が持てる情報の限りでは可能性の低いことであり、二つ目はなおのことである。道は無数にあって、私への道は一つしか無い上に、その太さなんて分からない。通りやすい舗装道路では無く、あってないような獣道かもしれないのだ。他人が一つの道を辿るのをやめたからと言って、自分の望む道を選んでくれる保証など無いのだ。

 

それでも私はいつまでも一つの道が忘れられずにいて、小便を残してきた犬のようにいつまでも可能性を探して嗅ぎ回っている。何と不毛な感情か。やはり恋はひどく一方的で勝手だし、それを重々自覚していてもなお理性ではどうすることもできない。少なくとも私の場合は、だが。

美「白」

アメリカの某企業が美白製品の販売を中止するというニュースを目にした。「白い肌を推奨している」との批判を受けてのことだという。多くの日本人は「やりすぎだ」と感じるだろう。私も同じである。

でも、一言「そこまでする意味が分からない」で済ませてはならないと私は思う。「明らかな差別の助長」と「考えすぎ」との間の線引きは、直感的に思うよりも複雑で難しいものだ。

 

例えば、多くの日本人(多くは女性だと思われる)が「今よりも白い肌になりたい」あるいは「白い肌を維持したい(焼けたくない)」と願うのは事実である。また、そのような日本人の多くが人種差別を意識していないことも事実であろう。彼らの多くは別にネグロイドの人々の肌を美しくないなどと思うわけではないし、中には好きなネグロイドのタレントがいるだとか、他の人種であったとしても浅黒い肌の人が好きという人もいるだろう。彼らには彼らの美しさがあることを認める人は多いと思う。それでも、自分自身は白くなりたい。それは何故か?恐らく「何故自分が白くなりたいと思うのか」「何故白い方が美しいと思うのか」を考えたことのある人はそう多くないと思う。

 

ひとがどんな美的価値観を持とうが自由な筈だ。では、あるモンゴロイドの人が「今よりも白い肌になりたい、その方が美しいと感じるから」と願うとしたら、それも自由な個人の美的価値観ではないのか?そんなものが本当に人種差別的か?これは自然な疑問であろう。では、何故「白い方が美しい」と思うのか?そのような価値観を持っている人は、本当に自分の、個人の内的価値観からそう感じているのか?実際、本当にそうかもしれない。が、大元を辿れば無意識のうちに植え付けられた「コーカソイド的美が規範であり、そこに近いほど美しい」という価値観が内心にあって、当人も意識しないうちにそれを自分自身の価値観として取り込んでいる、かもしれない。このプロセスは至って無意識的で、成長過程であらゆるメディアや周りの人々からそのような価値観を刷り込まれている、かもしれない。こうなると確かに、必ずしも人種問題と無関係ではなくなってくる。

でも、本人も無意識なのだ。価値観、特に美的価値観の多くは成長過程で外部から刷り込まれていった要素が極めて強く、それらすべてに社会的な理由に基づいて批判をしようと思ったらほとんど全ての既存の価値観の否定になってしまうかもしれない。特に美という概念には多くの場合「比較」がついて回るから、あれは人種差別だこれは体型差別だとやっているうちに色々なものを否定していくことになってしまう可能性もあるのでは無いか。どこまでが「個人の思う美」で、どこからが「押し付けられた美」なのか?どこまでが「政治的に正しく純粋な美」で、どこからが「差別的で歪んだ美」なのか?誰が明確な線引きをできるというのか?誰もできやしないのだ。社会とそこに生きる個人とは、葡萄の房のように簡単に切り離せる代物では無いのだ。価値観は個人の中だけで作られるわけでも、社会の中だけで作られるわけでも無い。この曖昧性を認識せぬままに言葉狩りや製品狩りをするのは、かなり危険な行為では無いかと私は危惧している。

それぞれの人種にはそれぞれの人種なりの美しさがある。そこは絶対に肯定しなければならないだろうし、間違っても「ある人種はある人種に比べて劣っている」というようなことを言ってはならない(美以外においても)。それは真だが、同時に各個人が己のなりたい容姿を望む権利もある。しかしその「なりたい容姿」の基準に、無意識的な人種的優劣の感覚が組み込まれているかもしれない。でもそれを言ってしまえば他にも無意識的に刷り込まれた(そして考えようによっては不適切な)価値観はあるかもしれず、それら全てを捨て去るのは非常に困難であろう。別に「面倒臭いから今のままで良いよ」という意味では無く、少なくともその事実を多くの人が理解してからでないと話は始まらないと思うのだ。

 

私個人としては、どこかで折り合いをつけるしか無いと考えている。まず個人が望む姿になる権利を認識すること。その上で、個人の願望や価値観には無意識的に刷り込まれた要素が多分にあることを知ること。その上で、理性的判断力をもって折り合いをつけること。これらが必要なことなのでは無いか。怒りに任せて言葉や物に文句をつけるのは真に差別に立ち向かっているとは言えないだろう。価値観は抑圧で簡単に変えられるものでは無い。人々の幸福のための差別反対運動でかえって己の願望を叶えられなくなる人を増やしてしまうのは本末転倒だ。それよりはいっそ、世の中の人々の美的価値観から変えていくというのが真の差別に立ち向かう姿勢なのでは無いか。製品の販売を中止するなどの措置に比べたら格段に長い時間はかかるだろうが、目指すべきはこちらなのでは無いかと私は思うのだ。

 

※この記事ではあえて「コーカソイド」「モンゴロイド」「ネグロイド」という言葉を用いたが、この分類が現代の科学では必ずしも正確なものでは無いことは一応承知はしている。私は差別的意図をもってこれらの語を用いたわけでは無いが、もし気分を害された方がおられたならばお詫びしたい。

あなたを守らなくちゃ

もし将来私が死にたい、消えたいと思うことがあったら、そんな日が来たら、必ずKing GnuのThe holeを何度も何度も聴こう。

 

この曲は元々聴いたことはあった。YouTubeでもそうだし、何なら数日前に音源も購入したばかりだった。しかし恥ずかしいことに私は歌詞を全然知らなかった。歌詞をあまり聴かず(というか私は恐らく歌の歌詞を聴き取るのが苦手なのだ)メロディーや曲調だけで音楽を好きになることが多い人間なので、漠然と自分好みの切ないメロディーとしか思っていなかったのだが、今までそんな聴き方しかしたことがなかった己を恨むほどに心に突き刺さった。

聖母のような優しさ、獅子のような強さ、でも守る側だって、聖母でも獅子でも無く人間なのだ。自ら光を放ちひとを照らしてやることはできなくて、互いの心身のすべての傷をなめらかに消し去ってやることもできなくて、万能でも器用でも無いかもしれない。けれど、それでもかすかな光を掻き集めて、自らが傷口になろう。どこまでも人間臭く、愛に溢れた歌なのだと思う。

 

私はこれまでの人生で甚大な挫折は経験していないし、何もかも休まなければならないほどに心の健康を損なってしまったことも無い。けれど(あるいはだからこそ)、一生平穏無事に生きられる保証など無いし、逆にもし近しい誰かがそのようになったとしたら、その人の支えになれる自信はまるで無い。私は弱い人間だから。

無理して強くなる必要は無いと思う。誰しも。誰かのすべての重みをひとりで支えきれるほど強くなくたって良いから、横に寄り添ってほんの少し肩を貸してやるだけでも良いから(少なくとも何もしないよりはましだから)、できる範囲で優しく・強くありたい。し、どうしても踏み外してしまいそうな日には誰かの肩を借りて、それからThe holeを聴こう。

 

この記事は表現したくて書いたというよりも、いつか来てしまうかもしれない将来のための文章である。未来の自分への、心の底からの伝言である。「いつか」が来ないことを願うが、来ないとしてもこの歌は心に持ち続けていたい。そういうひとでありたい。