シベリアの森と草原から

最果ての地の白夜を求めて

移り気なテセウスの船

気づけば数ヶ月放置していた。書きかけの記事はいくつもあるのだが。

日曜の夜。頭が痛い。気圧痛なのか(今日はそこまで気圧の乱高下は無い筈なのだが…)、日曜夜ゆえの精神状態の産物か、もしかしたら件の疫病なのか。少しの体調不良にも疑心暗鬼に駆られる日々。体調不良者に優しくなったのかもしれないと思う一方、体調不良の理由を明らかにすべきという圧力もかかりやすいであろうこの社会はそれはそれで生きづらいとも思う。気圧頭痛くらいならいいが、例えば従来なら「体調不良」でぼかせていた生理痛をどう上司に伝えるか?あまり詳細に言いたくはないが、単に体調不良と伝えるだけでは相手を不安がらせてしまうかもしれない…と人知れず悩む女性などは多くいるのだろうな、と思うのである。

 

というのは今日書きたかったことの本題ではなかった(重大な問題であろうことは間違い無い)。

最近、というか今年度になって、己の大切にしていた筈のものがどうでもよくなってゆくのを感じ、それを恐れる感情がある。大切だった筈のもの——具体的に言えば音楽である。

 

大学生になって以来、今年までは、毎年一度はアマチュアのオケに乗っていた。大抵は大学オケで、昨年一度だけ社会人オケに乗せていただいた。そして今年もあわよくばそのオケに乗りたかったし、別のオケに乗せてもらうことが決まっていた。筈だった。

ご想像の通り、オーケストラは大人数だ。何も考えなければ密になるし、屋外でやるわけにはいかないし、管楽器奏者はマスク着用は不可能。このご時世にやるにはなかなか大変な営みなのである。私のオケが予定していた本番は夏。ようやく辛うじて練習ができるかできないかと言ったところ。お客様を呼ぶことのリスキーさもあり、春に練習ができていないこともあり、首都圏のアマチュアのオケが本番を決行するのは無理があった。

そんなわけで、その本番は丸一年延期となった。そして私はここ6年で初めて、一切オケに関わらない一年間を過ごすこととなった。

こう何年も貴重な土日を費やして練習に行き、一つの団体に留まらず新しい団体にも参加させてもらっていた人間が一年何もできなくなり。普通に考えれば寂しくなるところだ。しかし、私の中にそんな気持ちは恐ろしいほどに希薄だった。下手をすれば今年度は楽器の自主練どころか全く触らずに終わってしまうだろう。さらに来年、新卒1年目かつ日本のどこにいるか不明な状態かつ未だコロナ禍が尾を引いていそうであることを考えてしまうと、オケを再開するのもあまり気が進まない。良くて数年後か。しかしこんな状態の私が、数年ものブランクの後に楽器を再開しようなどと、果たして思えるだろうか?

 

私は4歳から高校生までピアノを習っていて、高校生から弦楽器をやり始めた。4歳から去年まででどの楽器にも触らなかった期間は大学受験のための1年半くらい(浪人したため)しかない。楽器をやっていなかった時期というのはそれだけ少なく、かつて自分は楽器をやっていなければ自分は死んでしまうような気がしていた。己の核の一つだった。しかし案外そうではないのかもしれない。無ければ無いで—いや、全く縁の無い生活は流石に少し悲しい気がするけれど、聴くだけでも満足できてしまうのかもしれない。本当に?私が?

 

しかし考えてみれば、私は元来怠惰なのであった。たとえ好きなものであっても、何らかの外的要因にお尻を叩かれなければなかなか実行できない。オケだって、大学に入って大学オケに入団したので続けられているだけで、例えば本番もレッスンも何も予定が無いのに自ら進んで練習を継続できるかと言われれば一切自信が無い。現にピアノは高3でレッスンを辞めてしまって外からの動機が失われてしまった今全然触らなくなってしまった(尤も今住んでいる家の住宅環境のために楽器の練習をやりにくいという事情もあるにはあるが、それでも全くやれないわけではない)。

 

ややこしいのだが、別に演奏が楽しくないわけではない。そうならば最初から大学オケや他の団体に興味など持たないし、入ったとしても途中で辞めているだろう。あがり症なので緊張もするが(弦楽器なのでソロなんか無いのに)、楽しいは楽しい。ピアノの発表会はあまり好きではなかったが、一人で弾くのは好きだ。演奏自体は好きなのだ。腰が重くきっかけが無いとなかなか継続・再開ができないというだけの話で。

しかし、いくら己の性質を自覚しているとはいえ、これまでの人生のそれなりに長い時間の間、楽器をやっているというのが自分のアイデンティティーの一つであったのだ。それが無くても案外寂しくないんだなと自覚してしまったことは、自分の中ではなかなかにショッキングであった。特に、受験や就職などに伴って「忙しいためにやりたくてもできない」のであるならばともかく、コロナ禍に起因する「暇なのに練習できない」という状態に対してフラストレーションもなくすんなりと受け入れられてしまった自分が恐ろしい。

 

自分の人生に生涯欠かせないと思っていたものが、実はそうでも無いのかもしれないと疑い始める。私は自分の好きなもの=興味関心の対象をアイデンティティーの中の大事な部分に据えているため、これはなかなかに重大であった。自分という船にとって大切だった筈の部品が、実は案外要らないかもしれないと気がつき、海に棄てていく。人生の中で新たに海から拾って身につける物もあるかもしれない。それを繰り返せばやがて、全ての部品が入れ替わってしまうのだろうか。

テセウスの船。自己同一性。まだ就職もしていない、新しい世界に足を踏み入れていない今年にこんなことを考えることになろうとは。